雪街音楽メモ

聴いた音楽、気になった音楽、音楽の話題など、音楽のある日常を書きました。

帝国劇場ミュージカル『エリザベート』観劇メモ

帝国劇場 ミュージカル『エリザベート』7月20日ソワレを観劇。

ミュージカル『エリザベート』はいわゆる

がある中の、今回の帝劇は東宝版。私は東宝版は初観劇だった。

主要キャストはダブルキャストになっており、私が観た回のキャストは、エリザベート花總まり、トート井上芳雄、フランツ・ヨーゼフ田代万里生、ルドルフ古川雄大ゾフィー香寿たつき、ルイジ・ルキーニ山崎育三郎 ほか、であった。

上記『エリザベート』プロモーション映像の最後のほう( https://youtu.be/PCus8RN9qiU?t=3m35s
エリザベートの「死」の直後のシーンや(トートは、それまでの薄笑いを浮かべた仮面的な死の顔とは全く違う、トート自身の『素顔』になっている。彼の『黄泉の国』にエリザベートが入ってきたからだ。初めてリアルで出会い、触れ合い、というより向こうが抱きついてきてトートは戸惑ってしまう。そして一瞬でまた別れ)、なにより、エリザベートが扇子で顔をバッと隠すシーン—一幕ラスト—など、エリザベート花總まりさんが外見、所作とも美しくて本当に忘れがたい。

第2幕第11場「Hass」(憎しみ)について

Musical Elisabeth (stuttgart) - Hass

Elisabeth Musical Part Fifteen (English Subtitles)

が書いてくださっているように、この場面、直接にはシェーネラーを言っている。が、歌詞内容や動作から、最終的(やがて行きつく20世紀。未来に時が一瞬移っている)にはナチス・ドイツヒトラーを示していることは明らか。
しかしこの《Hass》で

それについて小池修一郎氏の過剰演出である、といった類の批判もあるようだ(インターネット上などでは散見される)。
が、それは、たとえば日本人に分かりやすいような安易な改変、という意味以上に、本来の狙いを掬い取った演出であったと考えるほうが妥当かもしれない。というのは、オーストリアでも(もちろんドイツでも)、いわゆるナチス禁止法があり、公共の場でのハーケンクロイツ使用禁止、ナチス式敬礼禁止(ナチス式敬礼…右腕を伸ばして肩から上にピンとあげ掌は下を向ける。だからウィーン版《Hass》でもギリギリ肩と水平までです)、ナチスの罪の矮小化禁止など非常に厳しく規制されている。たとえば↓

ウィーン版をオーストリアやヨーロッパなと欧米で演じる際にはナチス・ドイツを表現できない法律の障壁が、日本では可能であるので出したのではないかな、と、私としては思う。先に書いたようにこの場面は時制破綻、一瞬未来に飛んで見せているわけで、そこらへんは総合的には破調している場なのかな、とも。

トートと臨死体験

トートは臨死体験で出てくる登場人物(?)というか、ある人間がその生において限りなく死に近づいている時ににょきっと出てくるヤツなんだね。だから、たびにトートを拒絶し、棺の上にいて棺の蓋が開いたとしてもずるずる滑り台にしちゃうだけ、とりすがるだけ、で決して中に入ることのないエリザベートはやっぱり生きる力が強い。

総合的な雑感

宝塚版がトートが主人公なせいか死に惹かれたのに対して、東宝版では生命力の強さ、生きる力を感じた。エリザベートはトートを拒絶していつも強く生きるほうにいってしまう。死にたいと思って死のうとしても、体や心は生きるほうに進んでしまう。だから、エリザベートが本当に死んだのは肉体的にも死に近くなってたかもしれないですし、なんのかんのトートは実は反面教師というか、やはり生きているエリザベートをこそ愛したかったのかなあとも思ったのだった。ちなみに井上トートはエリザベートがいざ死んで黄泉の国で出会ってみれば、素顔でうぶな、戸惑いとも見える表情を浮かべる青年になっていたりする。
あと、今回は宝塚版に比べて男性出演者もいることで、いわゆる女の武器(という言い方もいやらしいが)である「美貌」の出し入れのリアルさも感じた。音楽的にもソロの順番や調、伴奏の楽器の違い、など、細かい違いが楽しかった。